
人は外部からの情報を受取る時、情報を記号化し脳内に記憶する。習慣や日常の恣意性は誰しもに存在し、日々の生活で硬直化する事で常識となる。それは形としては存在せず、情報を受取る側の奥底にあり、物事の考えを固定する。その意識を見えぬ物、現存在として形がある物を見える物とし、見えぬ物を操作する為に見える物のデザインを行う事が、建築空間の新しい視点となる。日本人は黒子を見えていない物とする。この事から理解できるのは、習慣や日常によって出来た意識に、見えている物の奥に見えない物が存在する事である。その存在はただの物質的な存在の事ではなく、それを体験する人物によって左右される意識の問題で、見えぬ人見える人では大きく物の見方が分かれる。
次にもう少し具体的な作品例を挙げたい。この写真全てに共通して言える事が、過去に行動・機能・形状を体験した事で、見えぬ物が見える物として現れる。①. の写真は日本人であれば瓦割りを想像するだろう、しかし瓦の枚数がとてつもなく多い為に「おいおい、そんな高く瓦を積んで手首傷めないか?」とくすりと笑える。②. の写真はパーティーなどで使用するクラッカーの超巨大版で、一般的なサイズを知っている人にとっては、「ちょっと待ってよ」と叫んで耳を塞ぎたくなる。③. は誰しもが使用した事があるスコップで、掘る為の道具が埋まっているが、形状を記憶している者には、「これを引っこ抜くのは一苦労だぞ!」と頭によぎる。
このような意識をデザインする手法はアート作品や物などの単体であれば理解しやすいが、建築でこの手法を使い空間を豊かにする事は出来るだろうか?
例えば、建築空間での意識のデザインは、物の表面のみだけではなく、見える物としての見えぬ物を操作する事で、俯瞰的に空間や事を感じ取れるだろう。それは西洋文化であるパースペクティブの設計手法が、日本に入ってくる前の、鳥瞰図的な物事の捉え方を取り戻す切掛けであり、意識のデザインが日本的なるものを繋ぐ事になる。